東大生は世間的に見れば、間違いなく頭が良い人たちであろう。では東大生は全員文字が綺麗に書けるのかというと決してそんなことはなくて、たぶん東大生でも半分ぐらいの人は字が汚い。何故、字が汚いかというと字が綺麗になるための訓練をしてきていないし、そのような訓練をしようと思ったことがないからであるな。

例えば、数学の得意で字が汚い人はわりと多いと思う。これは、数式をなるべく速く紙に書けたほうが速く問題が解けて得であるため、判別可能なギリギリにまで文字を崩して速く書くことをその目標に設定してしまうからである。頭の良い子供であれ、子供のころに無意識にそのように(綺麗な文字を書ける子供から見ると)誤った目標設定をしてしまうことはある。大人が早い段階で気づいて、目標を修正させることができれば良いのだが、大人にしてもその目標設定が間違っていることに気づかないことは多々ある。

私は大学生の時に家庭教師をしていたのだが、その時の生徒で読めないレベルの文字を書く中学生がいた。彼は文字の崩し方が独特なので、他の文字と区別がつかないことが多く、何と書いてあるか読めないのだ。さらに言うと、彼は学校の成績がすこぶる悪かった。学校の成績が悪い子にありがちなのだが、先生に怒られないように板書をノートに書き写すことはするものの、あとで読み返すことは決してないので、彼にとっては、黒板の文字をなるべく速やかにノートに書き写すことが最重要課題なのであった。だから、他の文字と区別できようができまいが彼にとってはそんなことはどうでも良くて、とにかく速く書けさえすれば何でも良かったのであろう。

彼は学校の成績自体は悪いのだが、決して頭は悪くはなかった。物覚えもいいし、理解も早かった。しかし、物覚えが良いだけに、一旦そのような誤った目標設定をしてひたすらそこに向かって邁進してしまうと、文字は他の文字と区別できないレベルで崩されてしまい、自分でもあとから読み返すことが不可能なレベルになる。つまり、これは間違った目標設定をしてしまい、本人の高い学習能力でトレーニングを積み重ねた結果なのである。

彼に「この文字、自分で読める？読めないよね？」と私が尋ねると、確かに読めないと言う。「じゃあ、自分で読める(他の文字と区別できる)文字を書かないといけないよね？」と尋ねると「丁寧に(時間をかけて)書けってことですか？」と言う。「いまは丁寧に書けと言っているのではない。テストで答案に書かないといけないので、速く書ける必要はある。速く書くのと丁寧に書くのとは違う。受験のためには、速く、誰もが読めるような字を書いて欲しいんだ。」

私の言葉に、彼はキョトンとしていた。何故今更そんなことをしないのかと言わんばかりであった。いままでの目標設定が誤っていることを何が何でも認めたくないようであった。

人間は目標に向かってトレーニングを行い、学習能力のある限り、時間をかければそれを学習できてしまうのだが、時としてこのような誤った目標設定により負のトレーニングをしてしまいかねないのが人間なのであるな。

子供ですらこうなので、まして大人が自分がいままで設定していた目標が誤っていることを認めるのは難しい。駅の方角を間違えて30分ぐらい歩いたあと、駅が反対方向であったことに気づいた時の絶望感に似ている。自分がそれまでずっと間違った方角に向かって歩いていたことを認めたくないのである。しかも、この手の目標設定は子供の頃に無意識のうちにやってしまうので、自分が間違った目標に向かって突き進んでいることに無自覚なことが多い。

頭の良い子ならば、目標設定を間違えないかというと、実際のところそういう感じでもないのだと私は思う。自分が設定した目標に対して適切にトレーニングしてその目標を達成するような賢さ、頭の良さはあっても、目標設定が適切かどうかを判断する能力が高いとは必ずしも言い切れないからである。