今日は手短に人間が無限に賢くなれる方法について書いてみる。無限と言うとちょっと大仰な気もするので、まずは、有限時間tに対して「等比級数的に知識量が増える」とぐらいの意味だと思って欲しい。
※ もちろん、時間tが無限にいくのであれば、等差増加でもt→∞で知識量→∞になるだろうが、それは現実的な話ではないので..。
例えば、自分が学んできた算数(数学)のカリキュラムについて考えてもらいたい。小学一年生から中学三年、理系に進学した人たちは高校・大学でも数学をやったかも知れない。この算数(数学)の教科書の情報量、体感的には学年が2つ進むごとに2倍ずつぐらいになっていくように思う。まるでムーアの法則のようであるな。
俯瞰するに、小学校の内容が薄すぎるし、大学受験までで見ると高校三年でやるべき内容が濃すぎる。小学校のうちにもっと沢山やっておけば大学受験の時に苦しまなくて済むことは明らかで、進学塾なんかでは小学生のうちに中学・高校の内容をある程度こなすようになっているのはそのためである。
数学のカリキュラムを設計している人達が何を思ってこのような配分にしているのかは私は知らないが、どう考えても、等比級数的なレベルデザインになっている。レベル(学年)を一つ上げるために必要な経験値が2学年ごとに倍になっていくというような。
他の科目でも多かれ少なかれこの傾向はあるであろうが、数学は特にこの傾向が顕著である。無論、このようなレベルデザインになっているので、この等比級数的なデザインについてこれない人たちはその途中のどこかで脱落する。中学を卒業したあと高校にいかずに働くだとか、高校で進路分けの時に文系方面に転向するだとか、高校を卒業後、大学にはいかずに働くだとか、文系に行くだとか。大学でも同様に理学部に行かずに数学があまり必要のない工学部に行くだとか、進路の振り分けの時に工学部に転向するだとか。大学卒業後に大学院に進学せずに就職するだとかetc…。
言い出せばきりがないが、このような等比級数的なレベルデザインについていこうと思ってもついていくことが出来ずに、大半の人達はどこかで脱落していくのである。無論、家庭の事情や本人のやりたいことにもよるので自ら進んで離脱していく人たちもいるだろう。
いずれにせよ、数学のカリキュラムからは「人間という生き物は等比級数的に賢くなるものでしょ?」という数学教育全体をデザインした人の意志のようなものが見え隠れしている。でも、実際は、ほとんどの人はそんな風に「等比級数的に賢くなる」と思っていないし、そんな風には賢くならないことがほとんどである。そんな風に賢くならないから、学年が上がるごとに数学に費やす勉強時間がどんどん増えていく。そしてどこかでついていけなくなって、ドロップアウトしていく。
だからいま改めて問おう。そもそも、「人間という生き物は等比級数的に賢くなる」のかと?
次のような人間の記憶モデルを考えてみよう。これは私がこうだと考えている記憶モデルを単純化したものである。
1) いままでに経験していないような新しい物事を記憶する力(単純記憶力)は、年齢に応じて変化するが、話を単純化するために、若い世代においてはこれを一定であるとみなそう。
2) いままで経験した2つのことを紐付ける力(連想記憶力)は、その時点で記憶している量に比例する。
読者諸氏の経験に照らし合わせても、これは、わりと納得感があるのではないだろうか?
1)は、ある物事に対応している記憶素子を作るコストは大きく、一日に一定量しか作れないことを意味している。
2)は、ある物事に対応している2つの記憶素子間を接続するコストは比較的小さいが、しかし、一つの記憶素子から1日に伸ばせる結線数には限りがあるような状況である。ゆえに、記憶素子全体として見ると、おおむね記憶素子の数に比例した分しか1日に連想記憶を増やせないことを意味している。
さて、人間の記憶構造が、上記の1),2)からなるモデルであると仮定すると、記憶の量yが、時間tに伴い(最大で)どれだけ増えていくかと言うと、記憶が1日に増える量は、2)のように現在の記憶の量に比例して、そこに1)のように定数分加算されたものであるから、
$$ y’ = ay + b $$
となる。
これは変数分離形の微分方程式であるから(高校の微分積分でやったよね?)、
$$ \frac{y’}{ay+b} = 1 $$
と変形して両辺を時間tで積分する。左辺は置換積分を利用してyでの積分に書き換えられる。
$$ \int \frac{1}{ay+b} dy = \int {1} dt $$
\(c_1\)を積分定数として、
$$ \frac{1}{a} log (ay+b) = t + c_1 $$
yについて解くと、
$$ y = \frac{1}{a} e^{at + ac_1} – \frac{b}{a} $$
\( c_2 = e^{ac_1} / a \)とおくと
$$ y = c_2 e^{at} – \frac{b}{a} $$
となり、確かにyは時間tに伴い指数関数的に増えていることがわかる。
ここで大切なのは、2)の性質で、1)の性質だけだと指数関数的に増えない。記憶を紐付けることをせずに、単純記憶1)にだけ頼ろうとすると記憶できる量は時間とともに線形にしか増加せず、ゆえに、指数関数的な経験値が必要となるようにレベルデザインされている分野ではどこかで太刀打ちできなくなるのである。
例えば、高校物理で「数式の内容を理解せずに公式だけを覚える」というのは誰しも経験があると思うが、これは単純記憶である。それに対して、この公式は、あの式を積分すると出てくる、と覚えるのは、積分の方法を習得済みであるなら、これは連想記憶である。(残念なことに、日本のカリキュラムでは積分を習う前に物理学を学ぶので積分を使っての公式の導出ができないので、どうしても公式の丸暗記に陥りやすい。)
言うまでもなく、yを最大化しようと思うなら、
・一日に単純記憶できる量が一定なので、この限界まで新しいことを記憶する。
・一日に連想記憶で記憶できる量にも限度があるので、この限界まで何かと何かを紐付けて記憶する
…みたいな話になるが、数学の個々の問題をどう連想記憶に落とし込むのかという話は長くなるので、またの機会に別の記事で書きたい。
読者諸氏にとっては、逆に、悪い勉強法の例を提示したほうがわかりやすいかも知れない。
例えば、誰もが悪いとわかる勉強法として、英単語をローマ字で覚えるというものがある。parentを「パレント」とローマ字読みで読んで覚える。beautifulを「ベアウチフル」とローマ字読みで覚える。これはとても駄目な勉強法である。目前の期末テストには効果を発揮するかも知れないが、発音を聞いて綴りを書く練習にならないし、実際の発音とは別にローマ字読みのでの発音を覚えなければならないことになるのでおよそ二倍の記憶容量が必要になる。
本来、英語の綴りにはある程度の規則性があるのだから、その規則性を学んでいくべきなのである。そうすれば、規則に基づいているものに関しては新たに覚えなくて済むし(連想記憶で解決できる)、音だけ聞けば綴りが書け、だいたいの意味が想像できるようになるはずなのである。また、そうなるように勉強すべきなのである。
ところが、中学生はそういう長期的な視点に立って勉強に取り組めない。(ことが多い) 目先の期末テストのためにとても悪い勉強法を編み出してしまう。これでは賢くなれるものも賢くなれない。高校になって覚えなくてはならない英単語が爆発的に増えた時に対処できない。英語のカリキュラムも数学と同じように等比級数的に成長することを期待するレベルデザインとなっているので、どこかで脱落してしまう。
この意味において、悪い勉強法は、遅効性の毒として働くとも言えるのだが、本人は悪い勉強法である自覚がないし、目前に控えている期末テストはそれで点数が取れたりするので悪い勉強法だとも思っていなかったりする。しかし、彼らは高校・大学となるにつれて周りとの差が明確に開き始めて、「俺、中学の時は成績良くて、周りは馬鹿ばっかりだと思ってたのになー」みたいなことを言い出す。特に、1)の単純記憶力が優れている人にこのタイプが多い。1)だけに頼り、2)を活用するような勉強方法を採らなかったために起きる悲劇である。
いずれにせよ、等比級数的に賢くなるためには、このような悪い勉強法に対して、早い段階で分別がある(?)大人が、正しい方向に矯正してやる必要がある。
もうひとつ、別の例を出そう。
音楽教育についてである。例えば、3,4歳ぐらいの子供がピアノをやり始める場合、指先が器用な子供が時々いて、どんどん難しい曲が弾けるようになることがある。しかし、指導が十分でない場合、子供は楽譜を見てその音符に対応する鍵盤を高速で叩くというもぐら叩きのようなゲームとして捉えてしまうことがある。
本来、実際に鳴っている音と、ピアノの鍵盤の位置と、楽譜上の音符という3つは同じものを意味しているはずで、この3つが頭のなかで一致しなければならないのであるが、上の例だと、後者2つしか一致していない。この子供にとって、カフェで音楽が聴こえてきても、それは、音楽ではない何かである。少なくとも鍵盤の位置と対応するような音楽ではなく、自分の音楽経験とはならないであろう。そうすると、カフェで音楽が聴こえてきただけで、それがピアノの鍵盤の位置と対応して聴こえるという子供とは得られる経験値が大きく変わってしまう。
このように、間違った世界観で物事を認識してしまうと、生涯それが祟(たた)ってくるのである。何故なら、周囲は、間違った世界観で世界を認識していないことを期待しているし、間違った世界観で世界を認識していない人向けのレベルデザインになっているからである。
かと言って絶望する必要はない。子供のころにピアノを始めた人のほとんどが、プロのピアニストにならない(なれない)のと同様、このようなレベルデザインにおいて、人は皆、どこかで脱落するし、脱落するのが当たり前のようになっているし、脱落したからと言って即座に死ぬわけでもない。ピアニストになれなかったからと言って生きるのに困るわけでもないし、大学に進学できなかったらと言って食うに困るわけでもなければ、即座に死ぬわけでもあるまい。
ただ、無限に賢くなりたいのであるなら、すなわち、指数関数的に賢くなりたいのであるなら、まずは世界の摂理を正しく理解することだ。それは、beautifulをベアウチフルと読んで覚えない、ピアノをもぐら叩きゲームにしてしまわないということである。
中学生のころから趣味でプログラミングを独学で覚えてそのまま情報系の学部に進学しました。計算機理論やソフトウェア設計論などを難しげな教科書で学びましたが、プログラミングとの関係がさっぱりわからず興味がもてませんでした。結果ソースコードは書けるけど中でどう動いているのかはよーわからんというプログラマが誕生することに・・・。業界数年たってある程度全体像も見えてきましたが、当時にそれを教えてくれる人がいればどれだけ学習の効率がよかったかと思います。
かつて広大な砂漠を歩くのに羅針盤が必須であったように、広大な学問領域を縦横無尽に練り歩くには、メンターのような存在が必要なのかも。
「ご冗談でしょう,ファインマンさん」を思い出します。
主人公がブラジルだかに行って「点 P のまわりの力のモーメントは、力を F、力の作用点の点 P からの位置を r とすればN = r × Fで定義される」みたいに教えてて、学生はその授業を聞いてるんですよ。
ところが、それがドアノブ回すときに働いているような力であり、取っ手がちょっと大きめなのはモーメントを大きくするため。そういう理解にちっとも結びついていないんですよ。主人公激おこぷんぷん丸
beautifulはやや不規則な単語なので「ベアウチフル」と覚えるほうが楽ではないのかという指摘を受けたのでこれに反論しておきます。
https://twitter.com/yaneuraou/status/1271904963279478785
私はbeautifulが不規則な綴りだとは全く思いません。
意味的に考えてbenefitとかのbene(goodの意)と同語源のbeが先頭なのは明らかで、次に/ju’/の発音を作らないといけないのですが、この音はeからだとeauかewと綴るしかないです。
この時点でbeau-かbew-かまでが確定します。
さらにtの音を続けるときにwからtは子音の連続となって気持ち悪いのでこれを避けて前者を選択し、beaut-になります。このように一般的な規則に基づき、発音から推測し完全に綴れます。
またそのように発音から推測する技術を身に着けることの大切さについて本記事では言及しています。
このような一般的なルールは他のどの単語についても適用できるので、ルールを一つ覚えることで何百・何千という単語を覚える労力が省力化できるのに対して、「ベアウチフル」のように、ある単語にだけ適用できる例外ルールのような感じで捉えてしまうと、その例外ルールではその単語一つしか覚えられないのでものすごくコスパが悪いです。
発音から推測する技術
こんな高度なやつでなくていいから、もっと初歩の初歩の初歩のレベルでいいから発音から推測する技術を身につけるには、なんという本で勉強すればいいんですかね?もしくは何でググればいいんですかね?
「英語 発音 法則」でググって記事の上位100件ぐらい読んだあと、自分で「 /ju’/の発音でありうる綴りは…」みたいな感じで発音の小さな塊とそれに対応する、ありうる綴りすべてを整理していきましょう。(`・ω・´)b
さすが天才やねうらおさん。素晴らしい記事です。新聞の1面記事とかに取り上げてほしいくらいの優れた内容だと思います。
前に「はじきの法則」というものを中学生でも使っている子供を知って「『はじきの法則』は自転車の補助輪みたいなもんで、一時的に使うならいいど・・・」と思ったことがあります。教える側がきちんと教えていない。ちょっと慣れてきた時期に、何回か速さ時間距離の定義をきちんと伝えないと概念伝わらない子も出てくるだと思ったことがあります。
「概念」を伝える技術。「概念」に落とし込む技術。
それこそが「言葉おばけ」の技術なのかなと思ったりします。
それと「省エネで目先の利益だけを最優先」は長期的に見て良くないという考察も素晴らしいです。
以下はジョジョの奇妙な冒険からの引用
私の大好きな言葉です
(ビン捨て場のガラスくずを眺めながら)「そんな中から、探す気かい?」
「仕事だから、な・・・」
「・・・ああ、その、何だ・・・」
「何か?」
「いや・・・その、参考までに聞きたいんだがちょっとした個人的な好奇心なんだが、もし見つからなかったらどうするんだい?「指紋」なんて、取れないかも・・・いや・・・それよりも見つけたとして、犯人がずる賢い弁護士とかつけて無罪になったとしたら。
あんたはどう思って・・・そんな苦労をしょい込んでいるんだ?」
「そうだな・・・わたしは『結果』だけを求めてはいない。『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ・・・近道した時『真実』を見失うかもしれない。やる気もしだいに失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな・・・違うかい?」
大好きなジョブズスピーチも引用しときます
もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。
繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。
長杉産業(長過ぎるので次から3行ぐらいで書いてくれの意味)